こんにちは!
こうめです。
311から10年を迎えるというところで
また大きな地震がありましたね!
今回(2月13日)は、津波がなくて本当に良かったなと思います。
10年前311のことを思い出してみたいと思います。
当時、地震のあった時は、夜勤入りで地下の更衣室で一人の時にグラグラと😨
「このまま地下に埋められたらどうしよう?」
っと不安になるくらいの揺れでした。
その日に限って、早めに職場に着いたので、更衣室にひとりで、本当に怖かったです。
自分の仕事場の階(9階)まで、階段で上がっていくと
(階段登ったせいか?恐怖のせいか?息切れ動機!)
上の階に上がるごとに壁にヒビが入っていたり
棚の物が全部落ちていましたね😢
いつも気の強いおばちゃんが、棚の下に隠れて震えていたので、上の階はよっぽど揺れたのだと思います。
そのあと夕飯の時間だったのですが、エレベーターは動かないので、厨房の人と、事務員さんと総出で運んでくれてました。
(この日はご飯ができてたので普通のご飯が来てましたが、その後数日は材料が仕入れられなくて質素ごはん。糖尿の患者さんはインスリンとか内服とかのコントロールが難しいことになってました)
夜勤中も余震が続いて、その度に見回りに。
病院なので非常用の電気はついていましたが、病室や廊下は真っ暗。
もちろん外は一つも電気がついてなく、信号すらついてないので暗黒。
あの暗さは、恐怖。
向かいの病院だけが電気ついている感じでした。
私の病院は、岩手〜宮城〜福島の海沿いからも患者さんが来るところで。
携帯電話の繋がらない中、患者さんが公衆電話に列を作って家族の安否を確認しようとしていました。
しかし、電話も繋がらないもので、どの患者さんも暗い顔をしていました。
(数日連絡が取れない患者さん-家族も普通にいましたね。)
この夜は、ラジオくらいしか情報を得る手段がなくて、津波で原発がやられちゃってるとか
すごく広い範囲が水に飲まれてるなんて思ってもいなかったです。
自宅の中もひどい状況を想像し覚悟して
夜勤終わった後に帰宅。
自宅は意外にも洗面台のボウルの中に棚の物が全部入っていたくらいでした。(キレイに収まってた)
水も電気もガスも死んでいましたけど。
12日夜は、ひとりで暗黒の自宅で過ごすのは怖すぎたので、病院の控え室借りて泊まりました。
この時、混乱を起こして全ての食べ物をリュックに詰めて移動してました🤣
私の職場、自宅は内陸の方だったので、ライフラインが止まったくらいの被害でしたが
海の方に住んでた先輩が夜勤明けで自宅にいて津波にさらわれてしまって帰らぬ人となってしまいました。
お母さんを亡くされた先輩もいて、自分のことじゃないのに、すごくショックでしたね。
あの頃は、生きるのに必死で、どんな生活をしていたのかほとんど覚えていないのですが…
巷ではガス会社を装って女性宅に押し入る男性とかの噂があったので、気を張って生きていた気がします。
そういえば、後輩が原チャで東北脱出のために逃走(無断欠勤)したり、みんなおかしくなってましたね。
宅急便も被災地域には配達してもらえなくて、レターパックでお米を送ってもらったりしてました。
スーパーとかも、全然やってなくて。
たまたまやってるお店を見かけたら
外に並んで、「1人10点まで買い物できます」って感じでしたね。
便乗値上げで、恐ろしい値段で食品を売ってるお店もあったり
なんだか町中の空気がピリついてましたね。
私は原発の方の地域に住んでいたこともあって、そちらの話も聞きましたが
初期は「放射能で汚染されてるから!」って言われたみたいです😢
普通の日々って、本当に尊い。
できれば経験したくないことでしたが、当たり前のことに感謝できました。
これからも、感謝して生きよう!
最後まで読んでいただきありがとうございました😊